今回は、内野聖陽さんの弟にまつわるエピソードについてまとめていきます。
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内野聖陽のきょうだいは弟ではなく姉が2人いる!
画像参考:朝日
内野さんの家族構成に関する公にされている情報は限られているため、詳細についてはあまり知られていません。
とはいえ、結論から書くと、内野聖陽さんには弟がいません。むしろ彼こそ3人きょうだいの末っ子で、2人のお姉さんがいるとのこと。
また、そのお姉さんたちの年齢や職業についても気になるところですが、一般の方であるため、詳しい情報は得られませんでした。芸能人の家族はプライバシーを重視する傾向があり、とくに兄弟姉妹に関してはあまり公にされることがありません。
弟のウワサが出た理由は出演作品から!
内野さんに弟がいるというウワサについては、彼の出演作が関係しているものと思われます。
たとえば、内野さんは2013年にドラマ『とんび』で主役を務めました。この作品では、内野さんが演じる市川安男(ヤス)の弟分として、音尾琢真さんが葛原鉄矢を演じています。音尾さんは役作りについて「葛原は小さいヤスだ!」と意識して演じたとされ、2人を兄弟のような関係で表現しました。
画像参考:Tver
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内野さんと音尾さんについては、舞台『TRUE WEST~本物の西部~』でも共演。この作品では、内野さんが無法者の兄を、音尾さんが理性的な弟を演じ、実際の兄弟の確執を描いています。2人は顔は似ていないものの、兄弟らしい雰囲気を持っていて高く評価されていたとか。
画像参考:世田谷シアター
共演を通じ、内野さんと音尾さんが兄弟のような関係を演じていたことから、視聴者やファンに内野に実際に弟がいるのではないかという印象を与えたかもしれません。
ただ前述したように、内野さんは実際には3人きょうだいの末っ子であり、2人の姉がいる家で育っています。
内野聖陽の姉たちについての情報は出てこない
画像参考:スポニチ
内野さんには2人のお姉さんがいるという情報がありますが、残念ながら彼女たちに関する名前や年齢、外見などの詳細は確認できません。きょうだいとの関係、特に幼少期のエピソードに関する具体的な情報は見つかっていませんが、分かり次第追記していきます。
内野さんは兄弟が女性ばかりだったため、特に跡取り息子として厳しく育てられたという情報もあります。
これについては後述していきますね。
内野聖陽の出身は神奈川県のお寺!
さて、内野さんの実家はなんとお寺。神奈川県横浜市にある曹洞宗のお寺「雲松院(うんしょういん)」です。
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画像参考:X
このお寺は1535年(大永5年)、小机城の城主であった笠原信為が主君・北条早雲と亡くなった父親を弔うために建立したもので、450年以上の歴史を持つ由緒あるお寺だそうです。
1745年(延享2年)に火事に遭い、古い記録が失われたため建設当初の詳細は不明ですが、現在の本堂と山門は再建されて横浜市の有形文化財に指定されています。
現在、雲松院は内野さんのお父さんの弟(内野聖陽さんの叔父)が住職を務めています。
内野さんは裕福な家庭について公言していないものの、歴史あるお寺で育ったことから、家庭はそれなりに裕福だったことが窺えます。
画像参考:Newsポストセブン
内野聖陽の家族構成は5人家族だった
画像参考:yahoo画像検索
姉に関するエピソードがないため、現状は不明ではあるものの、姉2人と母親がいることには変わらないものと思われます。
時間をさかのぼり、彼の学生時代は父を入れて5人家族。両親と姉2人、そして内野さん本人だったそうです。
・父
・母
・姉2人
・内野聖陽さん本人
以降、詳しく見ていきましょう。
内野聖陽の父親は厳しくも優しい人
画像参考:Moviewalker
内野聖陽さんの幼少期と父親との関係は、なかなか厳しいものだったようです。父親は雲松院の住職であったため、学生時代は跡取り息子として特に厳しい指導を受け、毎朝、朝食前に「五観の偈」というお経を唱えることが寺の決まりでした。
なお、「五観の偈」とは食前に唱える食する心構えのことで、五つの短い経文だそうです。
画像参考:yahoo画像検索
他にも、砂利の上で正座させられたり、時にはゲンコツでのしつけもあったとされています。まさに昭和の厳しい父親像で、内野さんにとって父親は非常に恐ろしい存在であったことでしょう。
雲松院は1525年に創建された歴史ある寺院だったこともあってか、この環境で育った内野さんは、跡取りとしての重圧を感じながら過ごしたことが窺えます。
しかし、2002年には父親は亡くなってしまいます。内野さんは葬儀の際中、寺院の跡を継がないことを宣言。
それにより一時的に母との関係が断絶する事態にも陥っています。
画像参考:女性自身
父の葬儀で住職を継がない宣言
内野さんは俳優という夢を追い始め、1995年から本格的に活動を開始しました。
1996年には『第6回日本映画評論家大賞:新人賞』を受賞し、その後も数々の賞を受賞するなど、俳優としての成功を掴みつつあった矢先、父親の訃報が届きました。
2002年の父親の葬儀の場で、内野さんは住職を継がないことを宣言。この選択が母親との絶縁状態につながりますが、当時の心情について、内野さんは「父には、僕が想像を絶する以上の絶望感を与えてしまったと思っています」と語っています。
俳優という道を選んだことで、父親や家族、周囲の人々を裏切ってしまったという深い罪悪感を抱いていたようです。
画像参考:女性自身
父はお寺を継いで欲しがっていた
内野さんの父親は、彼が小さな頃から厳しいしつけを行っていましたが、自分の跡を継いでほしいと願っていたようです。
内野さんは中学から東京の仏教系の名門校である世田谷学園に進学し、大学も仏教系の大学に合格していましたが、親が敷いたレールに疑問を感じてからは両親の反対を押し切って早稲田大学に進学。
そして、俳優としての道を歩み始めます。
すると父親は、内野さんが住職になることを少しずつ諦め始めたものの、完全にその気持ちを整理することはできず、周囲には「おれが死んだらわからんよ。継ぐっていい出すかもわからないから」と語っていたそうです。
そのため、内野さんに「住職になるのか、ならないのか」と決断を迫ることはありませんでした。
この姿勢は、父親としての葛藤と息子に対する愛情が感じられますね。
寺を継いでいるのは叔父
内野聖陽さんが寺院を継がないことを宣言したのち、雲松院は内野さんの叔父(内野さんの父の弟)が住職としてその役割を引き継ぐことになります。
現在、お寺のウェブサイトには新しい住職の写真も掲載されており、寺院の運営は順調に行われているようです。
画像参考:yahoo画像検索
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内野聖陽の母親はあまり情報がない
画像参考:SPICE
内野聖陽さんの母親についての情報は、あまり公にはされておらず、名前や顔写真も出てきていません。
2012年2月までは、母親は横浜で一人暮らしをしていましたが、80代で介護が必要な状態になってからは、内野さんの自宅から車で2〜3分の距離あるマンションに住んでもらっているそうです。
画像参考:女性自身
過去、内野さんが寺院の跡を継がず俳優を選んだことで、母親との関係は一時期絶縁状態に陥っていましたが、
いまでは親子関係も改善し、内野さんの子供も祖母に懐いており、3世代で一緒に過ごす時間も増えているんだそうです。
画像参考:女性自身
内野聖陽は在学中に演技の道へ
内野聖陽さんは、中学から世田谷学園に進学しました。この学校は曹洞宗が運営する男子校で、スポーツの強豪校としても有名です。
内野さんは僧侶の資格を取得し、一時期は檀家でお経を読むこともありましたが、最終的に親の反対を押し切って1年間の浪人生活を経て早稲田大学政治経済学部に入学。演劇を始めるきっかけは、早稲田大学のESS(英語会)で英語劇に出演したこと。24歳で文学座の研修生となり、25歳で大学を卒業し、俳優の道を歩いていくことになります。
画像参考:yahoo画像検索
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内野さんは、自身を「根っからの引っ込み思案」と述べており、人前で何かを表現することが苦手な性格だったそうです。しかし、ESSの英語劇での経験をきっかけに、演劇の魅力に目覚め、サークル活動に没頭しすぎて留年してしまった内野さんが、先輩の誘いで入ったのが文学座研究所。
文学座研究所では、同期に寺島しのぶさんも在籍しており、非常にレベルの高い演劇集団であるそうです。
そこで演技の楽しさを知り、俳優としての道を進むことを決意したとか。
画像参考:ナタリー
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