アンテプリマのクリエイティブ・ディレクターとして世界的なファッションブランドを率いる荻野いづみさん。1998年に発売されたワイヤーバッグは社会現象を起こし、20〜30代の若い世代にも再びヒットを記録している注目のブランドです。そんないづみさんには、波乱万丈な母子の歩みを共にしてきた一人息子がいます。
「息子は今何をしているの?」「香港でどう育ったの?」「母子の関係は今どうなの?」という疑問に、この記事ではすべてお答えします。
荻野いづみの息子のプロフィールと現在!香港から世界を飛び回った一人息子
- 一人息子のプロフィールと現在の仕事
- 生まれた経緯!20歳での結婚と米国生活
- 6歳で母と香港へ!インターナショナルスクールでの幼少期
- 15歳でボストン留学・入院と「捨てられた」という心の傷
- 英国・パリで4年間独学!コンピューターとアートで現在のキャリアへ
一人息子のプロフィールと現在の仕事
荻野いづみさんの一人息子は、現在デジタル・エージェンシーを経営する実業家です。名前・顔写真・会社名はすべて非公開で、一般人として静かに自分のフィールドを歩んでいます。幼少期から香港・ボストン・パリ・マレーシアと世界中を転々としてきた国際派で、そのユニークな経歴が現在の仕事の土台になっています。
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デジタル・エージェンシーとは、ウェブサイト・アプリ・デジタル広告などのデジタル分野における制作やマーケティングを請け負う会社のことです。パリでコンピューターとアートを独学で学び、マレーシアでもコンピューターをさらに掘り下げたという息子さんのキャリアは、今の仕事へとまっすぐつながっています。
2019年頃のインタビューで荻野いづみさんが「41歳になった息子に」と語っていることから、2026年現在では46〜47歳前後と推測されます。いづみさんが24歳のときに生まれた長男で、最初の結婚でもうけたお子さんです。成城大学在学中に結婚し、アメリカでの結婚生活の中で誕生した息子さんは、いづみさんがデザイナーとして世界に羽ばたく前から、もっとも近くにいた家族です。
芸能人や公人ではなく一般の方として徹底してプライバシーを守っており、荻野いづみさんのインタビューや著作などから断片的に素顔が伝わってくるというのが、現在の状況です。世界的なブランドを持つ母の知名度に頼らず、自分のフィールドであるデジタルの世界で起業し会社を率いているという点に、独立心の強さと自立した生き方が感じられます。
母・荻野いづみさんがファッションという「美」を世界で表現してきたように、息子さんはデジタルという現代的なフィールドで自分なりの表現と事業を追い求めています。親子それぞれが異なるフィールドで結果を出している姿は、荻野家の自立した生き方を象徴しているといえるでしょう。
一人息子のプロフィール概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 続柄 | 荻野いづみの一人息子(長男) |
| 推定年齢 | 46〜47歳前後(2026年現在) |
| 育った場所 | 香港・ボストン・英国・パリ・マレーシア |
| 学んだこと | コンピューター・アート(主にパリにて独学) |
| 現在の仕事 | デジタル・エージェンシーを経営 |
| 家族 | 配偶者・子供3人(2019年頃時点) |
生まれた経緯!20歳での結婚と米国生活
荻野いづみさんの一人息子は、20歳で結婚した最初の夫との間に生まれました。相手は外国籍のクオーターの男性で、自営業として医療機器の扱いを手がけており、米国(アメリカ)でしか生産できない製品があったことからアメリカに移り住んで生活していました。いづみさんは成城大学在学中にこの結婚を決め、大学を中退してアメリカへと渡りました。
アメリカでの生活は、日本でいう「専業主婦」とはまったく異なるものでした。いづみさんはパートナーの仕事を支えるために社交術・料理・語学・フラワーアレンジメント・メイクアップ・ジュエリーデザインなど多様なスキルを積極的に習得し、接待や社交の場でも活躍しました。この時代に身につけた多彩なスキルが、後のアンテプリマでの仕事に活きることになります。
帰国後、24歳で長男を出産したいづみさんは、3歳になるまで育児に専念しました。「育児書をたくさん読み、とにかく話す」を心がけ、車の中でも「信号が赤です。止まります」と語りかけ続けるほど熱心に子育てに取り組みました。グローバルな時代になると感じていたことから、息子を1歳半でインターナショナルスクールに入れたのもこの時期です。
しかし、夫との関係は徐々に変化していきます。「このままただお金だけがある生活でいいのか」という自問と、ある広告代理店の方からの「20年後に旦那さんに別れてくれって言われたらどうするの?」という言葉がきっかけとなり、29歳でいづみさんは離婚を決意します。子どものために別れないというのも良くない——そう考えての決断でした。息子はそのとき6歳頃でした。
20歳での結婚と離婚が与えた影響
20歳での結婚→米国生活→帰国→出産→子育て→29歳での離婚という経緯は、いづみさんの人生の根幹を形成しています。夫の事業を支えるために習得した語学・社交術・接待の知識は、後に香港でブランドビジネスを立ち上げ成功させる際の大きな武器になりました。
そして、この離婚という選択が、息子さんと共に香港へ渡るという新たな人生の扉を開くことになります。
6歳で母と香港へ!インターナショナルスクールでの幼少期
荻野いづみさんの息子は、まだ6歳頃という幼い時期に、母とともに見知らぬ土地・香港へと移り住みました。いづみさんは離婚後に縁あって香港でイタリアブランドの極東代理店の責任者のポジションを得ており、母子で新生活をスタートさせることになったのです。慣れ親しんだ日本を離れ、言語も文化も異なる香港での生活は、当時6歳の息子にとって大きな環境の変化でした。
香港では、息子はインターナショナルスクールに通いました。多国籍・多言語の環境で学ぶことで、英語を中心とした語学力と国際感覚が自然に身についていきます。一方、母・いづみさんは香港でイタリアの高級ブランド「プラダ」のホテル「ザ・ペニンシュラ香港」内への出店を実現させ、フェラガモやルイ・ヴィトンの社長たちからブランドビジネスの極意を学びながら、目の回るような忙しさで働いていました。
母が仕事に打ち込む一方で、子どもの世話はフィリピン出身のメイドさんに頼む生活でした。勉強もがんばり特に問題はないと思われていた息子さんでしたが、後にいづみさんが振り返っているように、幼い息子は急激な環境の変化と孤独に静かに苦しんでいたのです。見知らぬ土地で、母は常に忙しく、子どもと向き合う時間は限られていました。その頃の苦しさが後の思春期の試練につながっていきます。
それでも、香港での生活が息子さんの国際感覚とたくましさの土台を作ったことも確かです。多文化・多言語の環境で育った経験は、後にボストン・パリ・マレーシアと世界を渡り歩くキャリアの礎となりました。華やかなファッションの世界の裏側で、母と息子が異国の地で二人三脚で生きていた香港時代は、後の絆の原点になった時期でもあります。
香港でいづみさんが確立したビジネスの土台
香港時代、いづみさんはプラダの極東展開を手がけ、1年目から黒字を達成するなど際立つビジネスセンスを発揮しました。日本人旅行者が増え始めたタイミングで「1万円札が入る財布を」と本国に提案するなど、市場のニーズを先読みする力は当時から卓越していました。後にアンテプリマを立ち上げる土台は、この香港時代に育まれていきます。
15歳でボストン留学・入院と「捨てられた」という心の傷
香港に渡って1年ほどで、いづみさんは前の夫に息子を一時的に預けましたがうまくいかず、息子は日本に戻っていづみさんの両親と暮らすことになりました。そして15歳になったとき、息子さんは単身でアメリカ・ボストンへの留学という大きな挑戦に踏み出します。世界有数の学術都市で、親元を離れての生活が始まったのです。
しかしボストン留学中、息子さんは体調を崩して入院することになりました。当時いづみさんはイタリア滞在中に知らせを受けました。「3カ月はホームシックになるから、あまり連絡しないように」というアドバイスに従い連絡を控えていたことが、思わぬ形で息子に伝わってしまいました。いづみさんは後に「息子は私に捨てられたと思ったようです」と率直に振り返っています。
この言葉には、働き続けてきた母の深い後悔と、それでも前を向いて歩んできた誠実さが込められています。忙しさゆえに「息子が親から離れ独り立ちできる年齢だ」と思い込んでいた一方で、まだ15歳の少年にとっては、母親のぬくもりが何よりも必要な時期でした。精神科医からは「幼いころから親の言うとおりに生きてきたことがたまっていたものが爆発したのでしょう」と言われ、カウンセリングにも通いました。
当時すでにいづみさんは再婚しており、新しい義理の娘もボストンに留学中でした。その娘から「あの子はまだ15歳なのよ!」と叱られたいづみさんは、慌ててボストンへ飛んでいきました。母の飛行機が着くまでの時間、どれほど息子が孤独を感じていたかは想像するに余りある出来事です。
15歳の爆発が意味したこと
精神科医が「ギリギリこの年齢で爆発して良かった」と評したように、この入院と心の叫びは、息子さんが自分の人生を歩み始めるための転換点になりました。いづみさんは後に「反抗期には爆発した方がいい」という言葉をスタッフへの助言として伝えており、この経験が自分なりの子育て哲学として昇華されていることがわかります。
英国・パリで4年間独学!コンピューターとアートで現在のキャリアへ
ボストンで入院し、帰国後も交通事故や体調不良が続く試練の時期を経た息子さんは、17歳になると誰にも頼らず単身英国へと渡りました。いづみさんは「とにかく生きてさえいてくれればいい」と毎日不安で不安でたまらなかったといいます。
しかし、息子さんは親も止められないほどの強い意志を持って、自分の道を切り開こうとしていました。
英国のあとはフランス・パリへ。パリでの4年間、息子さんは一度も日本に帰らず、独学でコンピューターと芸術(アート)を学び続けました。誰かに教えてもらうでも、名の知れた学校に通うでもなく、自分の興味の赴くまま技術と表現を身につけていったのです。いづみさんはこの期間、パリで数回食事をするのが精いっぱいだったといいます。
その後さらにマレーシアへと渡り、コンピューターをより深く学びます。香港→ボストン→英国→パリ→マレーシアという、10代から20代前半にかけての息子さんの軌跡は、一本の明確な線でつながっています。多文化に触れた香港の幼少期、ボストンで心の試練を乗り越えた10代、パリで技術と芸術を結びつけた学生時代——これらすべての経験が、現在のデジタル・エージェンシー経営という仕事の礎になっています。
アートとテクノロジーをかけ合わせるデジタル分野は、まさにこうした国際的でクリエイティブな歩みがあってこそたどり着ける領域です。母のいづみさんがファッションという美の世界で独自のブランドを立ち上げたように、息子さんもデジタルという現代的なフィールドで起業の道を選びました。15〜18歳頃の試練が「自分の人生を歩き始めるきっかけ」になったと振り返るいづみさんの言葉は、息子さんの成長を温かく見守ってきた母の誇りを感じさせます。
パリでの独学が生んだ独自のキャリア
パリは、アートとテクノロジーが交差する最先端の文化都市です。その地で4年間、誰にも頼らず独学でコンピューターとアートを学んだ息子さんの姿勢は、母・荻野いづみさんの「どんなに恥をかいても命まで取られるわけではない」という生き様と重なります。自分の才能と情熱を信じて突き進む、荻野家の気質が息子さんにもしっかり受け継がれているといえるでしょう。
荻野いづみと息子の絆!困難を乗り越えた母子の物語
- 離婚を決断した理由!「20年後に別れてくれと言われたら?」の一言
- 仕事と子育ての両立に悩んだ日々「いざとなれば仕事より息子」
- 入院・交通事故…試練のたびに家族の結束が固まった
- 継父との出会いとアンテプリマ設立の経緯
- 現在は4世代同居!孫3人と家族の絆
- プロフィールとアンテプリマの歩み
離婚を決断した理由!「20年後に別れてくれと言われたら?」の一言
荻野いづみさんが最初の夫と離婚を決意したのは29歳のときのことです。離婚を決めたとき、99.9%の人から「やめなさい」と言われたといいます。経済的にも安定しており、暴力があるわけでもない。外から見れば何不自由のない生活の中で、なぜ離婚を選んだのでしょうか。
転機となったのは、広告代理店の方から言われた一言でした。「いづみちゃん、20年後に旦那さんに別れてくれって言われたらどうするの?」。この言葉がいづみさんの心に深く刺さりました。
「今はいいかもしれないけれど、このままただお金だけがある生活はやめたほうがいいかもしれないね」「子どものために別れないというのも良くない」という言葉に、いづみさんは自分自身のことを考えて決断を下しました。
この離婚の決断は、当時の社会的な常識から見ればきわめて勇気ある選択でした。
しかし、いづみさんは「将来が不安とか失敗が怖いとか、ネガティブなことはあまり考えていなかった。本当にバカなんじゃないと思うくらい」と笑い飛ばします。この「まあ、何とかなるでしょう!」という楽観的な強さこそが、いづみさんを世界的な実業家へと押し上げた原動力のひとつです。
離婚後、いづみさんは香港でイタリアブランドの極東代理店の責任者として声をかけてもらいます。これもまた「どんなに恥をかいても、命まで取られるわけではない」という信念を体現する行動でした。6歳の息子を連れて、見知らぬ香港へ飛び込んでいったいづみさんの決断は、その後の人生のすべての出発点になりました。
「命まで取られるわけではない」という人生哲学
荻野いづみさんを語るうえで欠かせないのが、この「どんなに恥をかいても、命まで取られるわけではない」という言葉です。アンテプリマ創業30年を振り返っても「挫折をあまり覚えたことがない」というほど楽観的に生き抜いてきたいづみさん。この哲学が、世界を舞台に一人で闘ってきた母と息子の双方に受け継がれているように見えます。
仕事と子育ての両立に悩んだ日々「いざとなれば仕事より息子」
世界で活躍する女性経営者として華やかな一面を持つ荻野いづみさんですが、その裏側には一人で息子を育てながら事業を立ち上げた、母としての奮闘の歴史があります。離婚を経て香港に渡ったいづみさんは、シングルマザーとして働きながらアンテプリマを生み出していきます。
新しいブランドを軌道に乗せる仕事は激務そのもので、子育てとの両立はたやすいものではありませんでした。プラダの香港店を1年目から黒字にし、その後アンテプリマを設立してミラノコレクションにも参加するという飛躍の陰で、息子との時間は極端に減っていきました。「子どもと過ごす時間は極端に減りました。家事や子どもの世話はフィリピン出身で住み込みのメイドさんにお任せ」と正直に話しています。
それでも、いづみさんは「どちらかを断念しなければならないとしたら、仕事を断念していたでしょう」と語っています。世界を相手に事業を広げてきた人物が、それでも「いざとなれば仕事より息子」と言い切っている点に、母としての根本にある覚悟がにじみます。実際には仕事も子育ても全力で走り抜いたわけですが、その根っこには常に息子さんの存在がありました。
3歳までの育児に全力を注ぎ、「あの子なら大丈夫」といつも信じ続けたこと——いづみさんはこの土台があったからこそ、多忙な日々でも心のどこかに安心感があったといいます。多忙ゆえのすれ違いも葛藤もあった、だからこそこの言葉に深い重みが宿ります。
仕事と育児の両立が生んだ葛藤
香港で夜の社交が増え、仕事の比重が大きくなる中で、息子が感じていた孤独といづみさんが感じていた母としての罪悪感は、後の思春期の試練として形となって表れました。
しかし、3歳まで徹底的に語りかけ愛情を注いだ育児が、息子さんの根っこを育てたとも感じているといいます。人生のどの局面でも「あの子なら大丈夫」と思えたのは、この3年間があったからこそでしょう。
入院・交通事故…試練のたびに家族の結束が固まった
荻野いづみさんと息子の歩みには、ひときわ大きな試練の時期がありました。15歳でボストン留学中に体調を崩して入院した息子は、母に「捨てられた」という感覚を覚え、精神的に追い詰められていきます。いづみさんが慌てて飛んでいき、息子を日本に連れ帰りましたが、帰国後も交通事故にあったり病気になったりと心配の絶えない日々が続きました。
いづみさんは「生きた心地がしませんでした。息子が死んでしまうのではないかと毎日、不安で不安で」と当時の心境を語っています。子どもが悪さをするのは「放っておくな!」と親に自分の存在を知らせているから、とも言われ、いづみさんは深く向き合うことを余儀なくされました。カウンセリングに通い、息子と丁寧に向き合う時間が少しずつ積み重ねられていきました。
精神科医から「幼いころから環境に合わせて気を張って生きてきたことがたまっていたのでしょう」「ギリギリこの年齢で爆発して良かった」という言葉を受け、いづみさんは後に「反抗期には小爆発を起こしている方が安心よ」とスタッフに伝えるほど、この経験を深く自分の中で消化しています。
息子さんは17歳で英国へ渡り、その後パリで4年間独学で学びました。「15〜18歳ごろの子育てが一番つらかった」と振り返るいづみさんでしたが、やがて息子さんは自分の力でデジタルエージェンシーを立ち上げるまでに成長しました。
そして現在、「いろいろな問題がありましたが、そのたびに家族の結束は固くなったように思います」といういづみさんの言葉が、母子の歴史の本質を語っています。
試練が結束を深めるという逆説
入院・事故・対立・長い別離——これだけの試練があってなお、いづみさんと息子さんは深い絆で結ばれています。その理由のひとつに、どんな困難においてもいづみさんが「あの子なら大丈夫」と信じ続けたことがあるでしょう。信じる力が、離れていても二人をつなぎ続けたのかもしれません。
継父との出会いとアンテプリマ設立の経緯
荻野いづみさんの現在の夫は、フェニックス・グループ・ホールディングス会長の荻野正明さんです。息子さんにとっては継父にあたる人物で、実業家として香港を拠点に国際的な事業を展開してきた人物です。いづみさんとの出会いは、ある社交パーティの場でした。
イタリアブランドの極東代理店の運営中、いづみさんはそのブランドの現地法人が設立されることになり、自分の手を離れることを知ります。
次の事業をどうするか模索していたとき、パーティに来ていた荻野正明さんに「こういうブランドを立ち上げたいのですが、出資にご興味はありませんか?」と自ら声をかけたのです。この大胆なアプローチが、ビジネスのパートナーとしての出発点となり、やがて人生のパートナーにもなりました。
1993年、荻野いづみさんは38歳でアンテプリマを設立します。ブランド名はイタリア語で「デビュー前」という意味で、「女性にとってデビューに年齢は関係がない」という思いを自分自身に向けて込めたものでした。38歳での起業は「遅すぎる」と思われることへの挑戦でもあったのです。
1998年に発売したワイヤーバッグ(PVC素材を手編みにしたバッグ)は、当初「こんなもの売れるか!」と社内でも否定されましたが、伊勢丹で販売したところたった1週間で完売。一大ブームを巻き起こし、アンテプリマのアイコン商品となりました。2020〜30代の若年層へのリバイバルヒットで、2024年4月期は前年比124.4%増という驚異の成長を記録しています。
アンテプリマと荻野正明さんの関係
荻野正明さんはフェニックス・グループの創業者であり、アンテプリマ設立の最初から出資者・パートナーとして関わってきました。いづみさんがクリエイティブ・ディレクターとして「作る」担当であれば、正明さんは事業全体のホールディングスとして「支える」役割を担ってきました。二人の分業は、ブランドの30年以上にわたる成功の根幹にあります。
現在は4世代同居!孫3人と家族の絆
数々の試練を経た現在、荻野いづみさんと息子さんの関係は深い信頼と絆で結ばれています。2019年頃のインタビューでいづみさんは、「現在、日本には息子夫婦と3人の孫、私の父と4世代で暮らす家があります」と語っています。思春期に反発し、世界を転々として生きた息子が、いつしか自分の家族を持ち、母の実家近くで共に暮らす生活を選んでいたのです。
孫3人はインターナショナルスクールに通い、夏には海外のサマースクールに出かけるという国際的な環境で育てられています。息子さんが自分の幼少期に香港で経験したものと同じような教育環境を、今度は自分の子どもたちに与えているのは、偶然ではないでしょう。自分が経験した「多文化・多言語の環境で育つことの価値」を深く知っているからこそ、子どもたちに同じ機会を贈っているのかもしれません。
いづみさんは「41歳になった息子に『俺のこと育てた?』と聞かれるほど私の子育てはお粗末でしたが、3歳までは心身をなげうって、しかも楽しんで子育てをしたという自信があります」と振り返ります。その言葉には、自分なりに全力を尽くしたことへの誇りと、長く離れていたことへの率直な反省が共存しています。
「自分なりの家族像をしっかり持つ息子をみると、いったいどこで学んだんだろうと感心してしまいます」というコメントも、息子に対する心からの尊敬と愛情を感じさせます。子どもは親だけが育てるのではない——苦労の多かった子育てを経て、いづみさんがたどり着いた境地です。
4世代家族が体現するもの
父(いづみさんの実父)・いづみさん夫婦・息子夫婦・孫3人という4世代が同じ屋根の下で暮らすという現在の生活は、荻野家が積み重ねてきた時間と絆の証です。試練のたびに家族の結束が固くなってきたといういづみさんの言葉通り、今の4世代同居という家族のかたちは、長い時間をかけて育まれた信頼の結晶といえるでしょう。
プロフィールとアンテプリマの歩み
荻野いづみさんは東京生まれ・東京育ちのファッションデザイナーで、アンテプリマのクリエイティブ・ディレクターを務める実業家です。2024年時点で69歳と語っており、現在も世界を飛び回りながら現役でブランドのクリエイティブを担っています。実家は新宿にあり、父方は銀座で「帯吉」という帯屋を営んでいたという和の文化と、外国籍のクオーターの夫との結婚による異文化との出会いが、その後の国際的な感性を育てました。
成城大学在学中に20歳で結婚・大学中退→米国生活→帰国後24歳で息子を出産→29歳で離婚・息子と香港へ→香港でプラダの極東展開を成功させる→38歳でアンテプリマをミラノで設立(1993年)→1998年にワイヤーバッグを発表し大ヒット→1998年よりミラノファッションウィークに参加→2020〜30代への再ヒットで過去最高売上を更新(2024年)という、まさに波乱万丈のキャリアです。
ブランド名「ANTEPRIMA(アンテプリマ)」はイタリア語で「デビュー前」の意。「女性にとってデビューに年齢は関係がない」という思いを込めた名前は、38歳での起業という選択そのものを体現しています。その精神は今もブランドの根底に流れており、世代を超えて女性たちの心を動かし続けています。
ファッションの才能ある次世代の若者をスポンサーとしてサポートする活動にも積極的で、「どんなに恥をかいても、命まで取られるわけではない」という信念のもと、常に挑戦し続ける生き方は多くの人に影響を与えています。
荻野いづみのプロフィール概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出身地 | 東京都 |
| 年齢 | 2024年時点で69歳 |
| ブランド名 | ANTEPRIMA(アンテプリマ) |
| ブランド設立 | 1993年(38歳のとき) |
| 現在の夫 | 荻野正明(フェニックス・グループ会長) |
| 代表作品 | ワイヤーバッグ(1998年〜) |
【まとめ】荻野いづみの息子は一般人のデジタル経営者!6歳で香港へ渡った母子の絆と波乱万丈の半生!
- 荻野いづみさんの息子は一人息子(長男)で最初の結婚でもうけたお子さんです
- 2026年現在、息子は46〜47歳前後で一般人として生活しています
- 現在はデジタル・エージェンシーを経営しており名前・顔は非公開です
- いづみさんが24歳で日本に戻ってから生まれた子で、1歳半からインターナショナルスクールに通いました
- いづみさんが29歳で離婚し、6歳頃の息子を連れて香港へ移住しています
- 香港ではインターナショナルスクールに通い多文化・多言語環境で育ちました
- 15歳でボストンへ留学し入院したことで「捨てられた」と感じる試練を経験しています
- 帰国後に交通事故や病気にあうなど15〜18歳頃が最も試練の多い時期でした
- 17歳で単身英国へ渡り、その後パリで4年間コンピューターとアートを独学しています
- さらにマレーシアでもコンピューターを学び、デジタルエージェンシーを設立しています
- 現在は結婚して3人の子ども(孫)がいて、インターナショナルスクールに通わせています
- 日本帰国時には息子夫婦・孫3人・いづみさんの父と4世代同居の生活を送っています
- 継父は実業家・荻野正明さんで、アンテプリマの事業パートナーでもあります
- いづみさんは「何かが起こるたびに家族の結束は固くなった」と母子の絆を語っています
- 「いざとなれば仕事より息子」と語るいづみさんの母としての信念が母子の根底にあります

